ANMELDEN翌朝、私はいつもより少し早く教室へ着いたのだけれど、昨日転校してきたばかりの篠宮君はすでに自分の席に座っていて、窓の外でも眺めているのかと思えば、机の上に何枚もの硬貨を並べながら、ひどく真剣な顔でその一枚一枚を確認していた。
百円玉、五十円玉、十円玉。
きっちり百六十円。
それだけなら別に何もおかしくないのだけれど、問題は、その硬貨がどれも妙にきれいだったことで、昨日まで誰かの財布に入っていたというより、銀行か何かからわざわざ用意してきました、と言われたほうが納得できそうなくらい傷ひとつ見当たらない。
「……何してるの?」
鞄を机の横へ掛けながら声をかけると、篠宮君は待っていたと言わんばかりにこちらを向き、並べていた硬貨を両手で寄せ集めると、私の机の上へ丁寧に置いた。
「昨日の百六十円だ」
「うん、それは見ればわかるけど、なんでこんなに儀式みたいになってるの?」
「借りた金は早く返したほうがいいと聞いた」
「誰に?」
「家の人間に」
「昨日帰ってから、わざわざメロンパン代について家族会議でもしたの?」
冗談で言ったつもりだったのに、篠宮君は何とも答えにくそうな顔で視線を逸らした。
「家族会議ではない」
「じゃあ何?」
「少し相談した」
「百六十円について?」
「ああ」
私は思わず椅子へ座るのを忘れ、机の上に置かれた硬貨と彼の顔を交互に見てしまった。
昨日からわかっていたことだけれど、この人はやっぱり少し変だ。
別に嫌な意味ではなく、本当に世間と何か一本くらいずれているというか、普通なら何となく理解していることを知らないくせに、こちらが知らないようなことを当然のように知っていそうな、そんな不思議な感じがある。
「篠宮君さ、もしかして、今まで友達にジュース代を立て替えてもらったりしたことないの?」
「ない」
「コンビニで財布忘れて、友達から千円借りたとか」
「ない」
「放課後にみんなでファミレス寄って、お金足りなくなったとか」
「ない」
「カラオケで割り勘したら一人だけ小銭なくて、誰かが多めに払ったとか」
「カラオケは行ったことがない」
「……今まで何して生きてきたの?」
昨日も同じようなことを聞いた気がするけれど、今日のほうが疑問は深刻だった。
篠宮君は少し考えたあと、本人なりには真面目に答えているらしく、「勉強と、必要な教育」と言った。
「必要な教育って何よ」
「語学とか、経済とか、歴史とか」
「高校生が言う『必要な教育』の範囲を超えてない?」
「そうか?」
「普通は塾とか部活とかでしょう。経済って何、株でも買うの?」
すると篠宮君は、ほんの一瞬だけ黙った。
その沈黙が妙に引っかかって、私は眉を寄せる。
「……買うの?」
「俺個人では、ほとんど扱ってない」
「扱ってないって言い方がもう怖いんだけど」
「そういう話はやめよう」
「今の、篠宮君から始めたんだからね?」
「高梨が聞いた」
「そうだけど」
言い返すと、彼の口元が微かに緩んだ。
昨日の昼休みに見たのと同じ、笑ったのかどうかわからないくらい小さな変化だったけれど、無表情でいる時よりずっと年相応に見える。
私は机に置かれた百六十円を財布へ入れながら、「はい、これで借金完済。もう気にしなくていいから」と言った。
「本当にこれでいいのか?」
「何が?」
「利息は」
「いらないよ!」
思わず声が大きくなったせいで、登校してきたばかりのクラスメイトが何人かこちらを振り返った。
「一晩百六十円貸したくらいで利息取ったら、私、とんでもない人になるでしょうが」
「だが、借りた期間に応じて――」
「篠宮君、今から大事なこと教えてあげる」
「何?」
「高校生同士のメロンパン代に金利計算を持ち込まない」
彼は数秒黙ってから、ひどく真面目な顔で頷いた。
「覚えておく」
「できれば一生使わない知識であってほしいけどね」
そこへ後ろから、「朝から何の話してんのよ」と美咲が現れ、私の肩へ顎を乗せるようにして机を覗き込んできた。
「おはよう、紗季。……って、え、何? もう篠宮君とお金の貸し借りしてるの? 昨日転校してきたばっかりだよね?」
「言い方!」
「だって百六十円返したとか聞こえたし」
「昨日、購買の使い方わからなくて、私がメロンパン代を立て替えただけ」
「ああ、そういうこと。何だ、つまんない」
「何を期待してたのよ」
「もっとこう、朝から男女の金銭トラブル的なものを」
「高校生の教室で期待する話じゃないでしょう」
美咲はけらけら笑いながら自分の席へ向かいかけたけれど、途中で思い出したように振り返ると、篠宮君へ向かって、「そういえば今日体育だからね」と言った。
その瞬間、彼の表情が止まった。
私はその変化を見逃さなかった。
「……何、その顔」
「体育?」
「あるよ。四時間目、男子はバスケじゃなかった?」
美咲がそう言うと、篠宮君は何かを確認するように自分の時間割を見た。
「体育というのは、全員参加なのか?」
「そりゃそうでしょ。体育なんだから」
「見学は?」
「怪我とか体調不良ならできるけど、篠宮君、どこか悪いの?」
「いや」
「じゃあ参加」
美咲が当然でしょうという顔をすると、篠宮君は珍しく困ったように眉間へ皺を寄せた。
昨日の小テストでは余裕だったくせに、体育という言葉ひとつでこの反応なのだから、私はちょっと楽しくなってしまった。
「もしかして運動苦手?」
「……普通だ」
「その間は何?」
「普通だ」
「二回言うと余計怪しいんだけど」
「本当に普通だ」
「じゃあいいじゃん。バスケなんて授業なんだから、プロみたいなこと求められないよ」
「そういう意味ではない」
「じゃあどういう意味?」
「何でもない」
まただ。
聞かれると困ることが、どうもこの人には多い。
でも、昨日「家族が少し特殊だから」と言われた時と同じで、本人が話したくないことまで無理に聞き出すつもりはなかった。
だから私は「じゃあ頑張って」とだけ言って自分の教科書を出したのだけれど、篠宮君は少し間を置いてから、こちらを見て妙なことを聞いてきた。
「高梨は体育を見るのか?」
「男子の授業を?」
「ああ」
「体育館半分ずつ使うから、たぶん見ようと思えば見えるけど、女子はバドミントンだよ。人のこと見てる余裕ないと思う」
「そうか」
「何?」
「いや」
そう言ったくせに、なぜか少し安心した顔をした。
やっぱり変な人だった。
四時間目、体育館へ入ったところで私は、その「変」の意味をほんの少しだけ知ることになった。
女子は体育館の奥側でバドミントン、男子は手前側でバスケットボールという授業だったのだけれど、ネットを張る準備をしている最中、向こう側から男子たちの大きな声が聞こえてきた。
「篠宮、でけえんだからセンターやれよ!」
「いや、俺は――」
「転校初日から逃げんなって!」
「そういう問題じゃない」
「いいから入れ入れ!」
どうやら背が高いせいで、篠宮君は当然のようにバスケができると思われているらしい。
美咲がラケットを持ちながら私の横へ来て、「あれで運動音痴だったら面白いね」と囁いた。
「本人、普通って言ってたよ」
「男子の『普通』ほど信用できないものないから。特に身長百八十超えてる男子は、何かしらスポーツできると思われる呪い背負ってるし」
「偏見ひどいなあ」
そんな話をしながら準備運動を終え、女子の試合が始まったので、しばらく私は向こうを見ることもなかった。
ところが二十分ほど経った頃、シャトルを拾うために体育館の中央近くまで歩いていくと、ちょうど男子側から歓声とも悲鳴ともつかない声が上がった。
反射的に顔を向ける。
篠宮君がボールを持っていた。
いや、正確には、持ったというより、飛んできたボールを受け取ってしまったらしい。
彼は一瞬だけ困った顔をしたあと、目の前に来た男子を避けようとして、身体を横へずらした。
その動きが、妙だった。
速い。
というより、無駄がない。
ほんの少し重心を落とし、相手が伸ばした腕の横をするりと抜けたかと思えば、次の瞬間には三メートルほど先へ移動していて、守っていた男子のほうが「え?」と呆然としている。
「……普通?」
隣にいた美咲が呟いた。
「普通……なのかな」
「いや、絶対違うでしょ」
篠宮君自身も、しまったという顔をしていた。
それから急に動きが鈍くなり、わざとらしいくらいドリブルを失敗してボールを奪われたものだから、余計に怪しい。
「今、絶対わざと下手になったよね?」
「私に聞かないでよ」
「紗季、転校生の秘密を探る役目は隣の席の人でしょ」
「そんな役目、いつ決まったの」
「昨日」
「誰が決めたの」
「私」
「却下」
そう返した瞬間だった。
私の後ろから「高梨、危ない!」という声が飛んできた。
何が、と振り返る暇もなかった。
男子側で弾かれたバスケットボールがネットの隙間を抜け、勢いよくこちらへ飛んできていた。
顔の高さ。
避けられない。
そう思って目を閉じた次の瞬間、身体を強く引かれた。
「――っ!」
気づけば、私は誰かの胸元へぶつかっていた。
腕が腰のあたりへ回っている。
何が起きたのかわからないまま顔を上げると、すぐ近くに黒縁眼鏡があった。
「篠宮……君?」
息を切らした彼が、私を抱き寄せていた。
さっきまで体育館の反対側にいたはずなのに。
落ちたバスケットボールが、床を何度か弾んで転がっていく。
周囲が静まり返った。
私自身も声が出なかった。
篠宮君の腕は細く見える制服姿から想像していたよりずっと強く、それなのに乱暴さはなくて、私が倒れないように支えることだけに集中しているのがわかった。
「怪我は?」
「え……ない、と思う」
「頭は?」
「当たってない」
「足は?」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん……っていうか、篠宮君こそ、なんでここにいるの?」
その質問をした途端、彼の顔が固まった。
男子側から誰かが、「お前、今めちゃくちゃ速くなかった?」と叫んだ。
別の男子も、「いやいや、コートの端からここまで何秒だよ」と笑いながら近づいてくる。
篠宮君は私から手を離すと、数秒考えた末に、
「偶然だ」
と答えた。
「いや、偶然では人間そんな移動しないと思う」
私が言うと、美咲が横で噴き出した。
「篠宮君、さっきも一瞬だけめちゃくちゃバスケ上手かったし、絶対何かやってたでしょ。何? バスケ? 陸上? それとも格闘技?」
「何も」
「嘘だあ」
「本当に何もしていない」
「じゃあ生まれつき?」
「……まあ、そんなところだ」
苦しい。
どう考えても苦しい言い訳だった。
けれど先生が「怪我がないなら授業戻れ」と声を上げたため、その場はそれ以上追及されず、篠宮君は男子側へ戻っていった。
私はラケットを握り直したものの、しばらく自分の胸が妙に速く鳴っていることに気づいてしまい、何でもないふりをするのに少し苦労した。
だって、あんなふうに突然抱き寄せられたことなんてない。
しかも昨日会ったばかりの男子だ。
別に好きとか、そういうのじゃない。
助けてもらったからびっくりしただけだ。
そう自分に言い聞かせている横で、美咲がにやにやしながら私の顔を覗き込んできた。
「紗季」
「何」
「顔赤いよ」
「体育だから」
「まだほとんど動いてないじゃん」
「暑いの」
「四月だけど」
「美咲」
「はいはい、わかった、言わない。『冴えない転校生に突然抱き寄せられて、ちょっとドキドキしちゃいました』なんて誰にも言わない」
「言ってるじゃん!」
「声大きいって」
「誰のせい!」
私たちが揉めている間、男子側へ戻った篠宮君は、先生から渡されたボールを受け取っていた。
そして、こちらを見た。
一瞬だけ目が合う。
すぐに彼は視線を逸らしたけれど、その耳が少し赤くなっているように見えて、なぜか私まで気まずくなってしまった。
放課後になる頃には体育の騒ぎもほとんど忘れられていたものの、私は篠宮君が本当にただの「海外生活が長かった転校生」なのか、ほんの少しだけ疑い始めていた。
その疑問がさらに大きくなったのは、帰りのホームルームが終わって間もなくのことだった。
英語の担当教師である相原先生が教室へ顔を出し、篠宮君を呼び止めた。
「篠宮、ちょっといいか。転校前の学校の単位について確認したいんだけど、この書類、お前が書いたのか?」
「はい」
先生が持っているのは、英語でびっしり書かれた何かの書類だった。
「これ、英国式の表記だよな。向こうにいたのか?」
「少し」
「少しって何年?」
まただ。
篠宮君の答えが曖昧になる。
「何か国か移動していたので」
「何か国?」
先生の声につられて、帰り支度をしていた私まで耳を傾けてしまった。
「アメリカ、イギリス、スイス、シンガポール、それからフランスに短期間」
「……お前、親御さん何してるんだ?」
私は心の中で大きく頷いた。
先生、それ。
私も昨日からずっと聞きたい。
ところが篠宮君は少し考えてから、
「会社員です」
と答えた。
私は危うく机へ突っ伏しそうになった。
会社員。
世界中を何か国も転々とする会社員だって、もちろんいる。
いるけれど、彼が言うとどうにも怪しい。
相原先生も同じだったようで、「まあいいけど」と苦笑すると、突然英語へ切り替えて何か質問した。
私は学校の授業程度なら聞き取れるけれど、それでも半分くらいしかわからない速さだった。
篠宮君は少し驚いた顔をしたあと、英語で返した。
空気が変わった。
声の調子まで違って聞こえた。
詰まることも、考えることもなく、相原先生が途中で笑い出すくらい自然な英語を話している。
先生は日本語へ戻ると、
「いや、お前これ、帰国子女のレベルじゃないな。どこで覚えた?」
と感心していた。
「生活していたので」
「それだけじゃこうならないよ。まあ、英語の授業は退屈かもしれないけど付き合ってくれ」
「はい」
話が終わって先生が出ていく。
私はじっと篠宮君を見る。
彼が鞄を持とうとしたところで声をかけた。
「篠宮君」
「何?」
「普通の基準について、一回ちゃんと話し合わない?」
「どういう意味だ」
「数学は五分で満点、運動は一瞬だけすごくて、英語は先生より上手で、海外を何か国も移動してて、家族は少し特殊で、百六十円返すために家の人へ相談する高校生を、私は今まで普通って呼んだことないんだけど」
ひとつずつ指を折りながら言うと、篠宮君は露骨に困った顔をした。
「……高梨は細かいことを覚えているな」
「隣の席で全部見せられてるからね」
「忘れてくれていい」
「そう言われると余計気になる」
「困る」
「私も困ってる」
しばらく見つめ合ってから、先に篠宮君のほうが小さく息を吐いた。
「いつか話せることなら話す」
思っていたより真面目な声だった。
私は少しだけ驚いた。
「今は話せないの?」
「ああ」
「危ないこと?」
「違う」
「誰かに追われてるとか?」
「違う」
「実は外国の王子様とか?」
冗談で言ったのに、篠宮君は一瞬だけ変な顔をした。
「何、その反応」
「何でもない」
「今の絶対何かあったでしょう」
「ない」
「篠宮君、嘘つくの下手だね」
「よく言われる」
「誰に?」
「家の人間に」
また家の人間。
私は笑ってしまった。
「じゃあ、今は聞かない。ただし、危ないことに巻き込まれそうになったらちゃんと言ってよ。昨日会ったばっかりだから何でも相談してってほど仲良くないけど、隣の席の人が突然いなくなったら寝覚め悪いし」
すると彼は黙ってしまった。
「何?」
「いや」
「またそれ?」
「高梨は、誰にでもそうなのか?」
「そうって?」
「困っている人間を放っておけない」
少し考えた。
「誰にでもってわけじゃないよ。嫌いな人だっているし、腹が立つことだってあるし、自分ばっかり損してるなって思うこともある。別に聖人じゃないから、助けたあとで『私、なんでこんなことしてるんだろ』って後悔する時も普通にあるし」
「それでも助けるのか」
「目の前で本当に困ってたらね。あとから文句言うけど」
「面倒な人間だな」
「そうだよ。人間ってだいたい面倒でしょう」
私が笑うと、篠宮君は少しのあいだこちらを見ていた。
その黒縁眼鏡の奥の目が、昨日よりほんの少し柔らかくなったように見えたのは、たぶん気のせいだ。
「じゃあ、また明日」
私は鞄を肩へ掛ける。
「高梨」
「ん?」
「今日の体育のこと、ありがとう」
「それ、逆じゃない? 助けてもらったの私だけど」
「……そうだった」
「本当に変な人」
今度こそ教室を出ようとしたところで、篠宮君がもう一度呼び止めた。
「明日、何か必要なものはあるか?」
「何って?」
「学校で」
「教科書、筆記用具、お昼のお金、生徒証。体育はないから体操服はいらないかな」
「わかった」
「あと、百六十円を返すための家族会議も不要」
「家族会議ではない」
「まだそこ気にしてたの?」
笑いながら教室を出た私は、もちろん知らなかった。
その十分後、学校から少し離れた場所に停められた黒塗りの車へ乗り込んだ篠宮君が、迎えに来ていた男から、
「本日はどのような一日でございましたか、蓮司様」
と尋ねられ、しばらく黙った末に、
「高梨を抱いた」
とだけ報告したせいで、車内の空気が凍りついたことを。
「……申し訳ございません、もう一度お願いできますでしょうか」
「だから、高梨を抱いた」
「学校へ通われて二日目でございますよね?」
「ああ」
「蓮司様、差し出がましいことは承知しておりますが、九条家の後継者というお立場を考えますと、男女交際については旦那様と奥様へご報告する必要が――」
「何の話だ?」
「こちらがお聞きしたいのですが」
そこでようやく話が食い違っていることに気づいたらしく、蓮は眉間へ皺を寄せた。
「バスケットボールが飛んできたから、避けさせただけだ」
車内に、長い沈黙が落ちた。
やがて助手席の男が深く息を吐き、
「蓮司様」
「何だ」
「日本語というものは、主語と目的語と状況説明を省きすぎますと、大変な誤解を招きます」
「覚えておく」
「ぜひお願いいたします」
黒い車は静かに走り出した。
その後部座席で蓮は、制服のポケットから昨日借りた青いシャープペンシルを取り出した。
百六十円は返した。
けれど、今日また借りが増えた気がする。
彼女を助けたはずなのに、自分のほうが何かをもらってばかりいる。
そう思う理由を、蓮はまだ知らなかった。
ただ、明日の朝になれば、また隣の席に高梨紗季がいる。
その事実を思うだけで、今まで一度も楽しいと思ったことのなかった「学校」という場所へ、少しだけ早く行きたいと思っている自分がいた。
第85話 「一次選考、通った」御曹司が初めて自分で出した企画が評価されたのに、喜ぶ前から最終審査の資料を作り始めました クリスマスが終わった翌日の朝、私は一階から聞こえてきた叔父さんの声で目を覚ました。「由美子、五号箱どこやった!」「昨日全部倉庫に戻したでしょう!」「ねえぞ!」「右奥!」「右奥のどこだ!」「だから棚の右!」 クリスマス商戦が終わっても、ソレイユに平穏が戻るとは限らない。 むしろ大量に使った箱や保冷剤、飾り、予約表の片づけに加えて、年末用の焼き菓子まで始まるので、店の中はまだ落ち着かなかった。 私は布団の中でスマートフォンを確認した。 午前八時十一分。 篠宮君から、午前七時四十八分にメッセージが一件届いている。『紗季、起きたら連絡して』 珍しい。 普段なら、急ぎでもない限り冬休みの朝から連絡を要求するような書き方はしない。『起きた』 送ると、数秒で既読がついた。 そのまま着信。「早い!」『ごめん』「何かあった?」『あった』 声が少し変だ。 緊張しているようにも、嬉しさを抑えているようにも聞こえる。「コンテスト?」 一瞬黙った。『どうしてわかった?』「この時期に蓮司が朝から電話してくる理由、それくらいしかないよ」『……一次選考』「うん」『通った』 私は布団の上で起き上がった。「本当!?」『うん』
第84話 「十五分しかないのに、帰りたくなくなった」初めてのクリスマスイブ、御曹司からもらったのは高価な宝石ではありませんでした 十二月二十四日。 終業式の日。 朝から教室は、普段より少しだけ浮ついていた。 冬休みが始まるからというのもあるし、クリスマスイブだからというのもある。「今日、部活終わったら駅前のイルミネーション行くんだって」「誰と?」「聞く?」「聞くに決まってるでしょう」「彼氏」「裏切り者!」 そんな会話があちこちから聞こえる。 美咲は朝から私の机へ来るなり、鞄を指差した。「入ってる?」「何が?」「篠宮君へのプレゼント」「入ってるよ」「見せて」「嫌」「昨日も言ったけど、私もう中身知らないまま今日迎えたんだけど」「それでいいでしょう」「親友なのに」「プレゼントの秘密まで共有しなくていいの」「最近そういう線引き強くなったね」「誰のせいだと思ってるの」 そう言うと、美咲は教室の反対側を見る。 篠宮君も、今日は朝から妙に落ち着かない。 机の中を確認する。 鞄を確認する。 スマートフォンで時間を見る。 また鞄を見る。「……あれ絶対プレゼント確認してるよね」「たぶん」「なくなるわけないのに」「蓮司だから」「学校」「わかってる!」 美咲が笑う。
第83話 「高い物はいらないって言われた。でも安ければいいわけでもない」御曹司が初めてクリスマスプレゼントの値段より彼女の生活を考えました クリスマスイブに会える時間が十五分だけと決まった翌日から、篠宮君は妙に落ち着かなくなった。 原因はわかっている。 プレゼントだ。 私が「高価な物はいらない」「学校でも使える物がいい」と言ったせいで、むしろ考える範囲を狭めすぎたらしい。 朝のホームルーム前、席替えですっかり離れてしまった教室の反対側から何度かこちらを見ていた篠宮君が、佐伯先生が出ていくなり私の机まで歩いてきた。「高梨」「何?」「筆箱、今の好き?」「急にどうしたの」「質問」「見ればわかるでしょう。去年から使ってるけど」「買い替えたい?」「別に」「じゃあ筆箱じゃない」「蓮……篠宮君」 学校なので呼び直す。「うん」「プレゼントの聞き込みを本人にしすぎたら、全部ばれるよ」「でも、いらない物を渡したくない」「それはわかるけど」「ボールペンは?」「持ってる」「手帳」「スマホで予定見る」「定規」「クリスマスに定規もらったら、たぶん一生覚えてると思う」「悪い意味で?」「かなり微妙な意味で」 篠宮君は本気で考え込んだ。「じゃあ学校で使える物って、何?」「そこ自分で考えるんじゃなかった?」「難しい」「私も蓮……篠宮君のプレゼント考えてる
第82話 「クリスマス、会えないかもしれない」ケーキ屋の娘と御曹司、初めて恋人らしい予定が合いませんでした 十一月も終わりに近づいた頃、駅前の景色が急にクリスマスらしくなった。 つい先週まで秋物の服が並んでいた店先に赤と緑の飾りが増え、駅前広場の木には電飾が巻かれ、学校帰りの女子たちは「今年どこのイルミネーション行く?」なんて話をしている。 そんな中、昼休みに私の机までやってきた篠宮君は、いつになく少し緊張した顔をしていた。「高梨」「何?」「十二月二十四日」「うん」「予定ある?」 あまりにも真っ直ぐ聞かれて、私は一瞬返事に詰まった。「……クリスマスイブ?」「うん」「あるよ」 篠宮君の表情が止まった。「ある?」「ある」「誰と?」「その聞き方、ちょっと怖いよ」「ごめん。でも」「ソレイユ」「……店?」「一年でかなり忙しい日の一つ」 篠宮君は数秒黙った。「あ」「忘れてた?」「クリスマスにケーキ屋が忙しいことは知ってた」「じゃあ何で」「高梨が手伝うところまでつながってなかった」「娘だからね」「毎年?」「ほぼ毎年。学校ある日は夕方からだし、休みなら朝から」「二十四日も?」「今年は平日だけど、終業式のあとすぐ店戻ると思う」「二十五日も?」「たぶん」 篠宮君は、少しだけ目を伏せた。
第81話 「抱きしめてもいい?」約束のデートで御曹司を初めて抱きしめたら、今度は離れるタイミングがわからなくなりました 相沢君の試合を見に行った翌週の日曜日、私は駅前の時計を見上げながら、珍しく篠宮君より先に待ち合わせ場所へ着いていた。 約束は午前十一時。 今は十時五十二分。 いつもなら、この時点で彼はもう十分くらい前から立っているはずなのに、今日はまだ姿がない。「……まさか」 少しだけ心配になってスマートフォンを確認しようとした、その時だった。「紗季」 後ろから声がした。 振り返る。「びっくりした!」「ごめん」「どこから来たの?」「反対側の改札」「いつ着いた?」「今」「本当に?」「十時五十一分」「一分前じゃん」「うん」 本人は妙に満足そうだった。「何その顔」「待ち合わせ八分前」「普通!」「かなり改善した」「自分で言うんだ」「前は二十五分前」「それ考えたら確かに」 篠宮君は今日も自分で選んだらしい私服だった。 濃い色のニットに細身のパンツ。学校では隠している本来の輪郭がかなりわかる髪型だけれど、眼鏡を掛けているので、以前よりは人目を避ける工夫も自然になっている。「今日の服、自分で?」「うん」「黒崎さん確認なし?」「写真だけ送った」「送ったんじゃん」「『問題ありません』だけ返ってきた」
第80話 「高梨が来られなくても、俺は行く」御曹司が初めて彼女抜きで友達の試合を見に行きました 相沢君が篠宮君の本当の名前を知った翌日も、教室は驚くほど何も変わらなかった。「篠宮、英語の小テスト返ってきた?」「まだ」「俺、今回ちょっと自信あるんだよ」「前も言って六十二点だった」「あれは単語の範囲を一ページ勘違いしただけだから」「それを自信あるって言わない」「朝から正論やめろよ」 普通だ。 本当に普通だった。 相沢君は篠宮君を「九条様」とも「御曹司」とも呼ばないし、急に敬語にもならなかった。 むしろ昨日までと同じ調子で数学の宿題を見せてもらい、篠宮君が説明を始めると「そこまではわかるから三行飛ばして」と注文までつけている。 ただ、一つだけ以前と違うことがあった。 相沢君が時々、篠宮君の顔をじっと見る。 それも、かなり露骨に。「相沢」「ん?」「今日五回目」「何が?」「俺の顔見るの」「数えてんのかよ」「気になる」「いや、だってさ」 相沢君は小声になる。「これが九条グループの御曹司なんだなって思うと、ちょっと確認したくなるんだよ」「確認して何か変わる?」「変わらないから余計変なんだよ。昨日まで俺とコンビニで百円台のおにぎり見てた奴だぞ」「今も見る」「そうなんだけどさ」 私は隣で聞きながら笑ってしまった。「相沢君、まだ処理中なんだね」「そりゃ一日じゃ無理だって」「俺、何かしたほうがい







