FAZER LOGIN翌朝、私はいつもより少し早く教室へ着いたのだけれど、昨日転校してきたばかりの篠宮君はすでに自分の席に座っていて、窓の外でも眺めているのかと思えば、机の上に何枚もの硬貨を並べながら、ひどく真剣な顔でその一枚一枚を確認していた。
百円玉、五十円玉、十円玉。
きっちり百六十円。
それだけなら別に何もおかしくないのだけれど、問題は、その硬貨がどれも妙にきれいだったことで、昨日まで誰かの財布に入っていたというより、銀行か何かからわざわざ用意してきました、と言われたほうが納得できそうなくらい傷ひとつ見当たらない。
「……何してるの?」
鞄を机の横へ掛けながら声をかけると、篠宮君は待っていたと言わんばかりにこちらを向き、並べていた硬貨を両手で寄せ集めると、私の机の上へ丁寧に置いた。
「昨日の百六十円だ」
「うん、それは見ればわかるけど、なんでこんなに儀式みたいになってるの?」
「借りた金は早く返したほうがいいと聞いた」
「誰に?」
「家の人間に」
「昨日帰ってから、わざわざメロンパン代について家族会議でもしたの?」
冗談で言ったつもりだったのに、篠宮君は何とも答えにくそうな顔で視線を逸らした。
「家族会議ではない」
「じゃあ何?」
「少し相談した」
「百六十円について?」
「ああ」
私は思わず椅子へ座るのを忘れ、机の上に置かれた硬貨と彼の顔を交互に見てしまった。
昨日からわかっていたことだけれど、この人はやっぱり少し変だ。
別に嫌な意味ではなく、本当に世間と何か一本くらいずれているというか、普通なら何となく理解していることを知らないくせに、こちらが知らないようなことを当然のように知っていそうな、そんな不思議な感じがある。
「篠宮君さ、もしかして、今まで友達にジュース代を立て替えてもらったりしたことないの?」
「ない」
「コンビニで財布忘れて、友達から千円借りたとか」
「ない」
「放課後にみんなでファミレス寄って、お金足りなくなったとか」
「ない」
「カラオケで割り勘したら一人だけ小銭なくて、誰かが多めに払ったとか」
「カラオケは行ったことがない」
「……今まで何して生きてきたの?」
昨日も同じようなことを聞いた気がするけれど、今日のほうが疑問は深刻だった。
篠宮君は少し考えたあと、本人なりには真面目に答えているらしく、「勉強と、必要な教育」と言った。
「必要な教育って何よ」
「語学とか、経済とか、歴史とか」
「高校生が言う『必要な教育』の範囲を超えてない?」
「そうか?」
「普通は塾とか部活とかでしょう。経済って何、株でも買うの?」
すると篠宮君は、ほんの一瞬だけ黙った。
その沈黙が妙に引っかかって、私は眉を寄せる。
「……買うの?」
「俺個人では、ほとんど扱ってない」
「扱ってないって言い方がもう怖いんだけど」
「そういう話はやめよう」
「今の、篠宮君から始めたんだからね?」
「高梨が聞いた」
「そうだけど」
言い返すと、彼の口元が微かに緩んだ。
昨日の昼休みに見たのと同じ、笑ったのかどうかわからないくらい小さな変化だったけれど、無表情でいる時よりずっと年相応に見える。
私は机に置かれた百六十円を財布へ入れながら、「はい、これで借金完済。もう気にしなくていいから」と言った。
「本当にこれでいいのか?」
「何が?」
「利息は」
「いらないよ!」
思わず声が大きくなったせいで、登校してきたばかりのクラスメイトが何人かこちらを振り返った。
「一晩百六十円貸したくらいで利息取ったら、私、とんでもない人になるでしょうが」
「だが、借りた期間に応じて――」
「篠宮君、今から大事なこと教えてあげる」
「何?」
「高校生同士のメロンパン代に金利計算を持ち込まない」
彼は数秒黙ってから、ひどく真面目な顔で頷いた。
「覚えておく」
「できれば一生使わない知識であってほしいけどね」
そこへ後ろから、「朝から何の話してんのよ」と美咲が現れ、私の肩へ顎を乗せるようにして机を覗き込んできた。
「おはよう、紗季。……って、え、何? もう篠宮君とお金の貸し借りしてるの? 昨日転校してきたばっかりだよね?」
「言い方!」
「だって百六十円返したとか聞こえたし」
「昨日、購買の使い方わからなくて、私がメロンパン代を立て替えただけ」
「ああ、そういうこと。何だ、つまんない」
「何を期待してたのよ」
「もっとこう、朝から男女の金銭トラブル的なものを」
「高校生の教室で期待する話じゃないでしょう」
美咲はけらけら笑いながら自分の席へ向かいかけたけれど、途中で思い出したように振り返ると、篠宮君へ向かって、「そういえば今日体育だからね」と言った。
その瞬間、彼の表情が止まった。
私はその変化を見逃さなかった。
「……何、その顔」
「体育?」
「あるよ。四時間目、男子はバスケじゃなかった?」
美咲がそう言うと、篠宮君は何かを確認するように自分の時間割を見た。
「体育というのは、全員参加なのか?」
「そりゃそうでしょ。体育なんだから」
「見学は?」
「怪我とか体調不良ならできるけど、篠宮君、どこか悪いの?」
「いや」
「じゃあ参加」
美咲が当然でしょうという顔をすると、篠宮君は珍しく困ったように眉間へ皺を寄せた。
昨日の小テストでは余裕だったくせに、体育という言葉ひとつでこの反応なのだから、私はちょっと楽しくなってしまった。
「もしかして運動苦手?」
「……普通だ」
「その間は何?」
「普通だ」
「二回言うと余計怪しいんだけど」
「本当に普通だ」
「じゃあいいじゃん。バスケなんて授業なんだから、プロみたいなこと求められないよ」
「そういう意味ではない」
「じゃあどういう意味?」
「何でもない」
まただ。
聞かれると困ることが、どうもこの人には多い。
でも、昨日「家族が少し特殊だから」と言われた時と同じで、本人が話したくないことまで無理に聞き出すつもりはなかった。
だから私は「じゃあ頑張って」とだけ言って自分の教科書を出したのだけれど、篠宮君は少し間を置いてから、こちらを見て妙なことを聞いてきた。
「高梨は体育を見るのか?」
「男子の授業を?」
「ああ」
「体育館半分ずつ使うから、たぶん見ようと思えば見えるけど、女子はバドミントンだよ。人のこと見てる余裕ないと思う」
「そうか」
「何?」
「いや」
そう言ったくせに、なぜか少し安心した顔をした。
やっぱり変な人だった。
四時間目、体育館へ入ったところで私は、その「変」の意味をほんの少しだけ知ることになった。
女子は体育館の奥側でバドミントン、男子は手前側でバスケットボールという授業だったのだけれど、ネットを張る準備をしている最中、向こう側から男子たちの大きな声が聞こえてきた。
「篠宮、でけえんだからセンターやれよ!」
「いや、俺は――」
「転校初日から逃げんなって!」
「そういう問題じゃない」
「いいから入れ入れ!」
どうやら背が高いせいで、篠宮君は当然のようにバスケができると思われているらしい。
美咲がラケットを持ちながら私の横へ来て、「あれで運動音痴だったら面白いね」と囁いた。
「本人、普通って言ってたよ」
「男子の『普通』ほど信用できないものないから。特に身長百八十超えてる男子は、何かしらスポーツできると思われる呪い背負ってるし」
「偏見ひどいなあ」
そんな話をしながら準備運動を終え、女子の試合が始まったので、しばらく私は向こうを見ることもなかった。
ところが二十分ほど経った頃、シャトルを拾うために体育館の中央近くまで歩いていくと、ちょうど男子側から歓声とも悲鳴ともつかない声が上がった。
反射的に顔を向ける。
篠宮君がボールを持っていた。
いや、正確には、持ったというより、飛んできたボールを受け取ってしまったらしい。
彼は一瞬だけ困った顔をしたあと、目の前に来た男子を避けようとして、身体を横へずらした。
その動きが、妙だった。
速い。
というより、無駄がない。
ほんの少し重心を落とし、相手が伸ばした腕の横をするりと抜けたかと思えば、次の瞬間には三メートルほど先へ移動していて、守っていた男子のほうが「え?」と呆然としている。
「……普通?」
隣にいた美咲が呟いた。
「普通……なのかな」
「いや、絶対違うでしょ」
篠宮君自身も、しまったという顔をしていた。
それから急に動きが鈍くなり、わざとらしいくらいドリブルを失敗してボールを奪われたものだから、余計に怪しい。
「今、絶対わざと下手になったよね?」
「私に聞かないでよ」
「紗季、転校生の秘密を探る役目は隣の席の人でしょ」
「そんな役目、いつ決まったの」
「昨日」
「誰が決めたの」
「私」
「却下」
そう返した瞬間だった。
私の後ろから「高梨、危ない!」という声が飛んできた。
何が、と振り返る暇もなかった。
男子側で弾かれたバスケットボールがネットの隙間を抜け、勢いよくこちらへ飛んできていた。
顔の高さ。
避けられない。
そう思って目を閉じた次の瞬間、身体を強く引かれた。
「――っ!」
気づけば、私は誰かの胸元へぶつかっていた。
腕が腰のあたりへ回っている。
何が起きたのかわからないまま顔を上げると、すぐ近くに黒縁眼鏡があった。
「篠宮……君?」
息を切らした彼が、私を抱き寄せていた。
さっきまで体育館の反対側にいたはずなのに。
落ちたバスケットボールが、床を何度か弾んで転がっていく。
周囲が静まり返った。
私自身も声が出なかった。
篠宮君の腕は細く見える制服姿から想像していたよりずっと強く、それなのに乱暴さはなくて、私が倒れないように支えることだけに集中しているのがわかった。
「怪我は?」
「え……ない、と思う」
「頭は?」
「当たってない」
「足は?」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん……っていうか、篠宮君こそ、なんでここにいるの?」
その質問をした途端、彼の顔が固まった。
男子側から誰かが、「お前、今めちゃくちゃ速くなかった?」と叫んだ。
別の男子も、「いやいや、コートの端からここまで何秒だよ」と笑いながら近づいてくる。
篠宮君は私から手を離すと、数秒考えた末に、
「偶然だ」
と答えた。
「いや、偶然では人間そんな移動しないと思う」
私が言うと、美咲が横で噴き出した。
「篠宮君、さっきも一瞬だけめちゃくちゃバスケ上手かったし、絶対何かやってたでしょ。何? バスケ? 陸上? それとも格闘技?」
「何も」
「嘘だあ」
「本当に何もしていない」
「じゃあ生まれつき?」
「……まあ、そんなところだ」
苦しい。
どう考えても苦しい言い訳だった。
けれど先生が「怪我がないなら授業戻れ」と声を上げたため、その場はそれ以上追及されず、篠宮君は男子側へ戻っていった。
私はラケットを握り直したものの、しばらく自分の胸が妙に速く鳴っていることに気づいてしまい、何でもないふりをするのに少し苦労した。
だって、あんなふうに突然抱き寄せられたことなんてない。
しかも昨日会ったばかりの男子だ。
別に好きとか、そういうのじゃない。
助けてもらったからびっくりしただけだ。
そう自分に言い聞かせている横で、美咲がにやにやしながら私の顔を覗き込んできた。
「紗季」
「何」
「顔赤いよ」
「体育だから」
「まだほとんど動いてないじゃん」
「暑いの」
「四月だけど」
「美咲」
「はいはい、わかった、言わない。『冴えない転校生に突然抱き寄せられて、ちょっとドキドキしちゃいました』なんて誰にも言わない」
「言ってるじゃん!」
「声大きいって」
「誰のせい!」
私たちが揉めている間、男子側へ戻った篠宮君は、先生から渡されたボールを受け取っていた。
そして、こちらを見た。
一瞬だけ目が合う。
すぐに彼は視線を逸らしたけれど、その耳が少し赤くなっているように見えて、なぜか私まで気まずくなってしまった。
放課後になる頃には体育の騒ぎもほとんど忘れられていたものの、私は篠宮君が本当にただの「海外生活が長かった転校生」なのか、ほんの少しだけ疑い始めていた。
その疑問がさらに大きくなったのは、帰りのホームルームが終わって間もなくのことだった。
英語の担当教師である相原先生が教室へ顔を出し、篠宮君を呼び止めた。
「篠宮、ちょっといいか。転校前の学校の単位について確認したいんだけど、この書類、お前が書いたのか?」
「はい」
先生が持っているのは、英語でびっしり書かれた何かの書類だった。
「これ、英国式の表記だよな。向こうにいたのか?」
「少し」
「少しって何年?」
まただ。
篠宮君の答えが曖昧になる。
「何か国か移動していたので」
「何か国?」
先生の声につられて、帰り支度をしていた私まで耳を傾けてしまった。
「アメリカ、イギリス、スイス、シンガポール、それからフランスに短期間」
「……お前、親御さん何してるんだ?」
私は心の中で大きく頷いた。
先生、それ。
私も昨日からずっと聞きたい。
ところが篠宮君は少し考えてから、
「会社員です」
と答えた。
私は危うく机へ突っ伏しそうになった。
会社員。
世界中を何か国も転々とする会社員だって、もちろんいる。
いるけれど、彼が言うとどうにも怪しい。
相原先生も同じだったようで、「まあいいけど」と苦笑すると、突然英語へ切り替えて何か質問した。
私は学校の授業程度なら聞き取れるけれど、それでも半分くらいしかわからない速さだった。
篠宮君は少し驚いた顔をしたあと、英語で返した。
空気が変わった。
声の調子まで違って聞こえた。
詰まることも、考えることもなく、相原先生が途中で笑い出すくらい自然な英語を話している。
先生は日本語へ戻ると、
「いや、お前これ、帰国子女のレベルじゃないな。どこで覚えた?」
と感心していた。
「生活していたので」
「それだけじゃこうならないよ。まあ、英語の授業は退屈かもしれないけど付き合ってくれ」
「はい」
話が終わって先生が出ていく。
私はじっと篠宮君を見る。
彼が鞄を持とうとしたところで声をかけた。
「篠宮君」
「何?」
「普通の基準について、一回ちゃんと話し合わない?」
「どういう意味だ」
「数学は五分で満点、運動は一瞬だけすごくて、英語は先生より上手で、海外を何か国も移動してて、家族は少し特殊で、百六十円返すために家の人へ相談する高校生を、私は今まで普通って呼んだことないんだけど」
ひとつずつ指を折りながら言うと、篠宮君は露骨に困った顔をした。
「……高梨は細かいことを覚えているな」
「隣の席で全部見せられてるからね」
「忘れてくれていい」
「そう言われると余計気になる」
「困る」
「私も困ってる」
しばらく見つめ合ってから、先に篠宮君のほうが小さく息を吐いた。
「いつか話せることなら話す」
思っていたより真面目な声だった。
私は少しだけ驚いた。
「今は話せないの?」
「ああ」
「危ないこと?」
「違う」
「誰かに追われてるとか?」
「違う」
「実は外国の王子様とか?」
冗談で言ったのに、篠宮君は一瞬だけ変な顔をした。
「何、その反応」
「何でもない」
「今の絶対何かあったでしょう」
「ない」
「篠宮君、嘘つくの下手だね」
「よく言われる」
「誰に?」
「家の人間に」
また家の人間。
私は笑ってしまった。
「じゃあ、今は聞かない。ただし、危ないことに巻き込まれそうになったらちゃんと言ってよ。昨日会ったばっかりだから何でも相談してってほど仲良くないけど、隣の席の人が突然いなくなったら寝覚め悪いし」
すると彼は黙ってしまった。
「何?」
「いや」
「またそれ?」
「高梨は、誰にでもそうなのか?」
「そうって?」
「困っている人間を放っておけない」
少し考えた。
「誰にでもってわけじゃないよ。嫌いな人だっているし、腹が立つことだってあるし、自分ばっかり損してるなって思うこともある。別に聖人じゃないから、助けたあとで『私、なんでこんなことしてるんだろ』って後悔する時も普通にあるし」
「それでも助けるのか」
「目の前で本当に困ってたらね。あとから文句言うけど」
「面倒な人間だな」
「そうだよ。人間ってだいたい面倒でしょう」
私が笑うと、篠宮君は少しのあいだこちらを見ていた。
その黒縁眼鏡の奥の目が、昨日よりほんの少し柔らかくなったように見えたのは、たぶん気のせいだ。
「じゃあ、また明日」
私は鞄を肩へ掛ける。
「高梨」
「ん?」
「今日の体育のこと、ありがとう」
「それ、逆じゃない? 助けてもらったの私だけど」
「……そうだった」
「本当に変な人」
今度こそ教室を出ようとしたところで、篠宮君がもう一度呼び止めた。
「明日、何か必要なものはあるか?」
「何って?」
「学校で」
「教科書、筆記用具、お昼のお金、生徒証。体育はないから体操服はいらないかな」
「わかった」
「あと、百六十円を返すための家族会議も不要」
「家族会議ではない」
「まだそこ気にしてたの?」
笑いながら教室を出た私は、もちろん知らなかった。
その十分後、学校から少し離れた場所に停められた黒塗りの車へ乗り込んだ篠宮君が、迎えに来ていた男から、
「本日はどのような一日でございましたか、蓮司様」
と尋ねられ、しばらく黙った末に、
「高梨を抱いた」
とだけ報告したせいで、車内の空気が凍りついたことを。
「……申し訳ございません、もう一度お願いできますでしょうか」
「だから、高梨を抱いた」
「学校へ通われて二日目でございますよね?」
「ああ」
「蓮司様、差し出がましいことは承知しておりますが、九条家の後継者というお立場を考えますと、男女交際については旦那様と奥様へご報告する必要が――」
「何の話だ?」
「こちらがお聞きしたいのですが」
そこでようやく話が食い違っていることに気づいたらしく、蓮は眉間へ皺を寄せた。
「バスケットボールが飛んできたから、避けさせただけだ」
車内に、長い沈黙が落ちた。
やがて助手席の男が深く息を吐き、
「蓮司様」
「何だ」
「日本語というものは、主語と目的語と状況説明を省きすぎますと、大変な誤解を招きます」
「覚えておく」
「ぜひお願いいたします」
黒い車は静かに走り出した。
その後部座席で蓮は、制服のポケットから昨日借りた青いシャープペンシルを取り出した。
百六十円は返した。
けれど、今日また借りが増えた気がする。
彼女を助けたはずなのに、自分のほうが何かをもらってばかりいる。
そう思う理由を、蓮はまだ知らなかった。
ただ、明日の朝になれば、また隣の席に高梨紗季がいる。
その事実を思うだけで、今まで一度も楽しいと思ったことのなかった「学校」という場所へ、少しだけ早く行きたいと思っている自分がいた。
第67話 「下手でも笑わないでくださいね」御曹司の妹の初舞台は、たった一言の台詞から始まりました プラネタリウムへ行った翌週の木曜日、昼休みになってすぐ、篠宮君が珍しく自分の席から動かないままスマートフォンを見ていた。 席替えをしてからというもの、朝は私の席まで来るし、昼休みも相沢君と食べる日以外はだいたいこちらへ顔を出すので、逆に来ないと少し気になる。「紗季」 美咲が、私の視線の先を追って小さく笑った。「気になるなら行けば?」「何が?」「篠宮君」「別に気になってないよ」「三回見た」「数えないで」「席替えしてから、紗季も結構わかりやすくなったよね」「前からこんなもんでしょう」「前は隣にいたから見る必要なかっただけじゃない?」 その指摘には少しだけ言い返しにくい。 私は弁当箱の蓋を開けながら、もう一度だけ教室の後ろへ視線を向けた。 すると今度は篠宮君と目が合った。 本人が立ち上がる。「ほら来た」「美咲、実況しないで」 篠宮君はスマートフォンを持ったまま私たちのところへ来た。「高梨」「何?」「今週の土曜日、予定ある?」「午前中は店。午後なら空いてると思うけど」「美玲の学校へ行かない?」「美玲ちゃん?」 その名前を聞き、美咲も顔を上げる。「演劇部の?」「うん」 篠宮君が少しだけ笑った。「入部した」「本当に?」「先週正式に」「よかったじゃん」
第66話 「蓮司くんって、もう一回呼んで」約束のプラネタリウムで、御曹司が子供みたいに照れました 数学の答案が返ってきた翌日、教室では他の科目の返却も始まり、朝からあちこちで喜びと悲鳴が入り混じっていた。「英語、七十八。前回より三点上がった」 美咲が答案を見せてくる。「いいじゃん」「でも現代文七十六だった。もう少し欲しかったな」「十分でしょう」「紗季は?」「英語八十三。国語七十九」「安定してるね」「数学だけ急に八十一だったから、自分でもそこが一番嬉しい」「そこは篠宮先生のおかげ?」「先生って言ったら本人嫌がるよ」「じゃあ家庭教師彼氏」「もっと嫌な言い方になった!」 私たちが笑っていると、後ろのほうから相沢君の声が飛んできた。「高梨! 英語何点だった?」「八十三」「うわ、負けた」「相沢君は?」「六十八。前より十二上がった」「すごいじゃん!」「篠宮に『長文で止まるな』って言われたのと、桜井の読み方真似したら結構いけた」「ちゃんと成果出てる」「だろ?」 少し得意そうだった。 そこへ当の篠宮君が、自分の答案を持ってこちらへやってくる。「相沢、英語六十八おめでとう」「お前は?」「九十六」「聞かなきゃよかった」「何で?」「こっちが十二点上げて喜んでんのに、お前平然と九十六出すからだよ」「でも相沢は前回よりかなり上がった」「そういう正論っぽい慰め、今日は嫌じゃない
# 第65話 「八十一点。約束だから、お願いしてもいい?」御曹司に教わった数学で目標を超えたら、逃げられなくなりました 定期考査初日の朝、私はいつもより十五分早く教室へ着いた。 試験前日に夜更かしをするとろくなことにならないと母にも篠宮君にも念を押されていたので、昨日は十一時前には布団へ入ったのだけれど、目を閉じたあとになって数列の公式が頭に浮かび、「あの問題でもし一般項が出なかったらどうしよう」「物理の単位を間違えたら嫌だな」と考えてしまい、結局いつもより寝つきは悪かった。 それでも睡眠不足というほどではない。 むしろ問題は、学校へ着いた途端に周囲の空気へ飲まれたことだった。「ここ絶対出るって!」「いや先生、昨日ここ飛ばしたから出さないでしょう」「それが逆に怪しいんだって」「英単語あと二十個しか覚えてない!」 教室中で最後の確認が始まっている。 こういう時間に新しいものを見ると余計に混乱するとわかっているのに、誰かが「ここ出る」と言えば気になるし、自分だけ知らない公式が書いてあるような気までしてくる。 私は自分の席へ座り、数学のノートを開いたところで、一度深く息を吐いた。「高梨」 声がして顔を上げる。 今日も篠宮君が教室後方の自分の席からこちらへ来ていた。「おはよう」「おはよう。今日は早いね」「高梨も」「落ち着かなくて」「昨日何時に寝た?」「十一時前には布団入った」「勉強は?」「十時半で終わり」「よし」「何、その確認」「夜中までやってないか気になった」「蓮司こそ?」「学校」「あ」 私は周囲を確認して声を落とす。「篠宮君こそ何時まで?」「十時まで。そこから風呂入って本読んで寝た」「珍しい。もっと勉強するかと思った」「莉奈に『前日に詰め込んで睡
第64話 「篠宮君、勉強会なのにケーキを三回断るのやめて」御曹司をうちの店に連れてきたら、友達まで彼の不器用さを知りました 最初の勉強会から三日後の金曜日、私たちは予定通り、パティスリー・ソレイユの二階で二回目の勉強会をすることになった。 考査まで残り十日ほど。 相沢君は数学で六十点、私は八十点という目標を決め、美咲は「とにかく後半の大問まで手をつける」、莉奈は「数学で前回より五点上げる」と、それぞれ現実的なのか少し背伸びなのかわからない目標を設定している。 そして篠宮君だけは、自分の点数目標を聞かれても「前回よりケアレスミスを減らす」としか言わなかった。「それ点数目標じゃないでしょう」 昼休み、私がそう言うと、少し離れた席からこちらへ来ていた篠宮君は困ったように考えた。「でも前回九十八だったから、百点って言うしかなくなる」「腹立つなあ」 美咲が即座に言った。「篠宮君、本当にそれ学校で大きい声で言わないほうがいいよ」「今かなり小声」「声量の問題じゃない」「じゃあ何て言えばいい?」「『俺もミス減らしたい』くらいでいい」「でも点数聞かれたら?」「そこまで細かく正確に答えなくても人間関係壊れないから」「曖昧にする?」「嘘は駄目だけど、全部開示する義務もないでしょう」 篠宮君が少し考える。「最近、その区別かなり増えた」「何が?」「嘘をつかないことと、何でも話すことは違うって」 私が一瞬黙る。 あの人は最初、私が「嘘をつかない人が好き」と言った言葉を、ずっと強く覚えていた。「そうだね」「前は、隠したら全部嘘になると思ってたかも」
第63話 「赤点を取ったら次のデートどころじゃないよ」御曹司に勉強を教わったら、放課後の補習が本気すぎました 美玲ちゃんが演劇部への入部を決めた翌日、私たちの教室では、それとはまったく別の意味で逃げられない現実が突きつけられた。「来週から定期考査二週間前だからな。文化祭前後で授業進度がかなり乱れた教科もあるが、それを理由に範囲が狭くなると思うなよ」 朝のホームルームで佐伯先生がそう言った瞬間、教室のあちこちから悲鳴に近いため息が上がった。「先生、それはひどくないですか?」「文化祭で授業潰れたの学校側ですよね?」「だったら範囲も減らしましょうよ」 次々と不満が飛ぶ中、佐伯先生はまったく動じない。「授業が潰れたぶん、補足プリントも出してる。あと、今さら私に文句を言っても試験問題を作るのは各教科担当だから無駄だ」「先に逃げた!」「教師としてどうなんですか!」「現実を教えるのも教育だ」 そう言われてしまうと反論しづらい。 私は配られた考査範囲表へ目を落とし、最初の国語と英語までは「まあ何とかなる」と思っていた。 問題は、その下だった。 数学。 数列と図形。 物理。 力学。 私は思わず小さく唸った。「高梨」 少し離れた後ろの席から声がする。 振り返ると、篠宮君がこちらを見ていた。「何?」「今、かなり嫌そうな顔した」「数学と物理見たらね」「苦手?」「苦手ってほどじゃないけど、得意ではない」「前回何点?」「数学七十二、物理六十八」「赤点ではない」
第62話 「お兄様、恋人ができてから普通すぎません?」御曹司の妹が学校帰りに突然やって来ました 水族館へ行った翌日の月曜日、私は朝から少し眠かった。 別に帰りが遅かったわけではないし、夜更かししたわけでもない。ただ、寝る前になって篠宮君から送られてきた青いクラゲのキーホルダーの写真を見返してしまい、そのあと水族館でのことを思い出し、さらに海沿いのベンチでしたキスまで思い出した結果、布団へ入ってからなかなか眠れなくなっただけだ。 自分でも十七歳らしいと言えば十七歳らしいし、落ち着きがないと言えばその通りだと思う。「おはよう、高梨」 教室へ入ると、今日も私の席の横に篠宮君がいた。「おはよう。今日は何分いる予定?」「ホームルーム五分前まで」「自分で時間決めてるんだ」「佐伯先生に毎朝戻れって言われるから」「言われる前に戻ること覚えたんだね」「うん」 篠宮君が少し得意そうにする。「そこ褒めるところじゃないよ」「でも改善した」「改善前がひどいの」 私は笑いながら鞄を置いた。 篠宮君の学校鞄には、当然ながら昨日買ったクラゲのキーホルダーはついていない。「クラゲは?」「家で使ってるバッグにつけた」「本当に使ってるんだ」「使うって約束したから」「約束まではしてないよ」「でも高梨が『使うならいい』って」「言ったけど」「朝、かなり見た」「そんなに気に入った?」「昨日思い出すから」「はいはい」 軽く返すと、篠宮君が少し不満そうな顔になる。「最近、高梨『はいはい』増えた







